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日本製ペニシリン碧素(へきそ)の物語(4) 人間到る処バイキンあり(13)

メディカルコラム

望月吉彦先生

更新日:2018/03/05

進駐軍がペニシリンを大量に必要とした訳は…

ここまで日本におけるペニシリン研究、開発、合成について紹介してまいりました。
今回ではその続きをご紹介して、この日本製ペニシリン「碧素」の話題の結びにいたします。
日本製ペニシリン「碧素:へきそ」の効果はどうだったのでしょうか?
臨床医としてはとても興味があります。きちんとした記録はあまり残っていません。日本で作られた「碧素」は直ちに患者さんに使われました。現天皇、皇后両陛下ご成婚の立役者としても有名な故小泉信三慶応義塾大学塾長が東京空襲で大やけどを負った際の治療にも使われています。その他、多くの感染症の患者さんに使われましたが、系統立てた治療記録は残っていません。戦争の末期の混乱期でそれどころでは無かったのかもしれません。
今回も終戦間近からの時系列的にご紹介してまいりましょう。

  1. ペニシリン委員会の中心だった軍医学校は空襲を避けるために山形に疎開しています。それに伴い、ペニシリン委員会の中心人物の稲垣軍医少佐も山形に赴いています。そういうなか、昭和20年8月6日、広島に原爆が投下されます。
    早速、余談になってしまいますが、稲垣は、原爆について1年も前から、軍医学校でその可能性について話をしていたと記録されています。多くの方にあまり知られてはいませんが、当時、原爆を日本も作ろうとしていたのです。理化学研究所の仁科芳雄博士が昭和17年から、原爆製造を目指して研究をしていました。それを稲垣軍医は知っていたのですね。さらに話は横道に逸れますが、雪の研究で有名な物理学者「中谷宇吉郎」博士は、昭和12年すでに原子の力を応用した爆弾が出来ることを予見した文章を残しています。「見える人」には見えるのですね。
  2. 広島の原爆被災者の治療にも「碧素」は使われましたが、時期からして十分な量が使われたとは思われません。8月9日には、長崎にも原爆が投下されます。8月10日、稲垣軍医少佐は山形から上京します。そしてすでに敗戦が決まったことを、密かに知り、翌8月11日に「碧素製造に関する秘密特許」を陸海軍大臣の名において申請しました。
    敗戦が決まっているのに何故、急いだのか?それについて稲垣は後年、こう書いています。
    「戦後、世界貿易における一権益として国産碧素製造技術特許を取っておくことが必要であると思ったからだ。それは、賠償の一助になるかもしれないとも思った」
    天皇陛下によるポツダム宣言受諾放送前ですから、随分と目端が利いた話です。そして、後に形は変わりましたが、結果的に稲垣が考えたことが正しかったことが証明されます。
    稲垣の目端の良さを表すことがもう一つあります。8月8日、山形の上山駅で多くのソ連人が北海道を目指す列車に乗っているのを見て、ソ連が日本を攻めることにしたので、その前に本州に居るソ連関係者は身の安全のために北海道を経由して樺太に向けて逃げていくところなのかもしれないと思ったそうです。その予想は当たり、翌8月9日、ソ連は対日宣戦布告しました。
  3. 8月15日、昭和天皇陛下による「ポツダム宣言受諾」がラジオで放送されます。ついに戦争は終わります。ペニシリン委員会も解散します。
    戦争中のペニシリン製造物語はここで終わりますが、ここから戦後のペニシリン製造へと話を続けます。
  4. 昭和20年9月初めて日本に米国製ペニシリンが届きました。きちんと精製されたペニシリンは、日本製の「黄色みがかった精製度の低い碧素」と違い、キラキラとした白い結晶で、効果も碧素より数段上でした。梅沢浜夫によると純度は3-5倍だったそうです(梅沢については最後に紹介します)。
    しかし、ペニシリン委員会に属した面々は決して負けたとは思わなかったそうです。曰く「物資があれば精製はできた」、「血中ペニシリン濃度を測る方法は日本のディスク法の方が優れていたので、アメリカの雑誌にこの方法が掲載された」etc.と書き残しています。戦争には負けたけれど、物資があればペニシリン製造に関しては負けなかったと自負していた面々が多かったのだと思います。こういう研究者魂は良いですね。
  5. 昭和20年のある日、軍医学校の校長だった井深健次らは日本でのペニシリン研究業績と万有製薬が作ったペニシリンをGHQの命令で提出しました。敗戦で、打ちひしがれた日本には産業らしい産業はありませんでしたが、ペニシリン製造があったのです。「青カビがあれば作れるらしい」ということが知れ渡っていたので、製薬会社は勿論のこと、お菓子屋さん、レーヨン屋さん、砂糖屋さんなど様々な企業が、ペニシリンを作ろうとしました。昭和22年、前年に設立された日本ペニシリン協会に正式登録された会社だけでも80数社あったのです。未登録というか、「闇」で作っていた会社もあったかと思われます。
  6. ここは話が多少前後します。昭和21年1月、厚生省(今の厚生労働省)がペニシリンの公定価格を決めます。同年5月に万有製薬が公認製造許可1号を、森永製薬が許可2号を厚生省から交付されます。GHQは東京大学衛生学研究所をペニシリン検定所として定め、単位などを統一します。万有が検定に提出したペニシリン3万単位167本が日本最初の公認ペニシリンでした。ところがその167本の内、なんと107本は「性病向け」に使われたのです。進駐軍(GHQ)は「日本の赤線地帯は戦争より恐ろしい」と言い、その後もペニシリンの大半を「性病治療」に向けたのでした。進駐軍が最もペニシリンを欲していたのです。
  7. ペニシリンを日本で増産するため、昭和21年11月、アメリカからペニシリン研究の権威者の一人であるJ.W.フォスターを招きました。フォスターはこの時、米国でペニシリン生産のために使っていたQ176株を持ってきてくれたのです。覚えていますでしょうか?アメリカのペオリア市でメロンの上に生えていた青カビです。この青カビを用いて、フォスターが教えてくれた深部培養(タンク培養)を用いて、日本での本格的ペニシリン生産が始まります。
    フォスターは当時の講演で「このタンク培養はアメリカでも上手く行くまでに3年もかかった。日本ではもっと時間がかかるだろう」と述べています。しかし、結果はそんなにはかからなかったのです。これまでに記してきた如く、ペニシリンへの知識はペニシリン委員会により、全国各地で共有されていたからだと思うのですが、あっという間にタンクが作られます。
  8. 大津市の東洋レーヨンでタンク培養が、昭和22年3月に始まったのです。フォスターの講演を聞いてから、たったの4ヵ月しか経っていませんでした。フォスターは大津市の東洋レーヨンでのペニシリン生産の操業開始式に出席し、びっくりしています。それくらいペニシリンに対する知識が普及していたのです。米国の援助もあり、昭和21年には3万単位のペニシリンが月産1万5千本だったのが、同22年には10万単位で6万5千本となり、23年には 25万本となります。
  9. 昭和24年、ペニシリン協会の3周年記念講演で、GHQのサムス大佐は「現在、世界の中で、ペニシリンを大量に作れるのは米国、英国、そして日本の3ヵ国しかない。是非、このペニシリンを輸出するように」と述べています。敗戦国だったドイツ、イタリアは勿論、戦勝国だったオランダ、フランス、ソ連でも大量生産はできなかったのです。
  10. そして、昭和25年、朝鮮戦争が勃発したため、ペニシリンの需要が上がり、ついに輸出することになります。 そうです。上記 28. で述べた如く、稲垣の予想が当たったのです。

写真:稲垣克彦先生
稲垣克彦先生の写真です
(終戦後、警察病院勤務時代)

日本でのペニシリン製造の道を開いた稲垣軍医少佐は、終戦後警察病院で内科医として勤務しています。リウマチの本を書いたりもしていますが、ペニシリンに関しては昭和21年に自らの名前を伏せて「ペニシリン」と題した本を出版しています。しかし、以後はペニシリンに関することからは一切、手を引いています。この辺りの出処進退も潔いですね。
警察病院を退官後は日本橋で開業し、平成15年、92歳でその生涯を終えています。今はほとんど知る人もいないのですが、偉大な生涯でした。
再三、書きますが、キーゼの総説がドイツから届き、彼がそれを読み解いて1年余でペニシリンを作り上げられたのは、彼の指導力の賜物だと思います。医学、薬学、農学、理学、その他、色々なところに目を配り、日本の科学の総力を結集したからこそ戦中戦後の大変な時期にも関わらず短期間に偉大な成果が得られたのだと思います。
日本製ペニシリン「碧素」の話はこれにて結びとさせていただきます。

参考までに:

ペニシリン委員会の主立ったメンバーは後に、抗生物質、抗癌剤の分野で活躍します。
その代表が、梅沢浜夫です。梅沢はカナマイシン、ブレオマイシンの発見により、世界中で広く知られています。先般、大村智先生が抗寄生虫薬である「イベルメクチン」の発見に対する業績でノーベル賞を受賞しましたが、イベルメクチンは土壌細菌である放線菌が作る物質です。日本でのこういう研究の「元」は「ペニシリン委員会」だったのだと思います。
現在、平和な日本で、こういう日本の科学力を結集した研究をしようとしても、簡単には進みません。戦時ならではのことだったと思います。

【参考文献】

  • 奇跡の薬―ペニシリンとフレミング神話 グウィン マクファーレン(著), 北村 二朗(訳) 平凡社刊
  • 碧素・日本ペニシリン物語 角田房子(著) 新潮社刊
    内容が濃い、凄い本です。是非、新潮新書または新潮文庫で再刊して欲しいですね。
  • ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い レナード・ビッケル(著), 中山 善之(訳) 佑学社刊
  • 失われてゆく、我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房刊
  • 水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業:犬丸秀雄関係文書を基にINK科学史研究』266, 2013年, pp. 70-80
  • 深海の使者 吉村昭(著) 文春文庫
  • 中谷宇吉郎全集:1-8巻 岩波書店
  • 抗生物質を求めて 梅沢浜夫 文藝春秋社
  • くすりの社会誌 西川隆(著) 薬事日報社

望月吉彦先生

望月吉彦先生

所属学会
日本胸部外科学会
日本外科学会
日本循環器学会
日本心臓血管外科学会
出身大学
鳥取大学医学部
経歴
東京慈恵会医科大学・助手(心臓外科学)
獨協医科大学教授(外科学・胸部)
足利赤十字病院 心臓血管外科部長
エミリオ森口クリニック 診療部長
医療法人社団エミリオ森口 理事長
芝浦スリーワンクリニック 院長

医療法人社団エミリオ森口 芝浦スリーワンクリニック
東京都港区芝浦1-1-1 浜松町ビルディング1階 プラザ 111 内
TEL:03-6779-8181
URL:http://www.emilio-moriguchi.or.jp/

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